今日、フィギュアスケートの羽生選手の国民栄誉賞の授賞式がありました。
気になる記念品については、本人が辞退したため、今回はありません。
「皆さんが応援してくださり、受け取ることができた。国民栄誉賞に恥じないようなスケートをしていくことが大事だと思っている」とのコメントがあり、受賞は快く受けるけど、それ以上、チャラケた感じのある記念品受賞までしないという決意です。
羽生結弦選手に国民栄誉賞 個人最年少、フィギュアで初:朝日新聞デジタル https://t.co/72iHcpl44U
お写真10点来てる pic.twitter.com/gZsVXr13VR— ぽるこ (@yuzuporuko) July 2, 2018
これについては、何度か感想を伝えているように、非常に良い傾向だと思います。
自民党の安部政権にとっては、少しは支持率アップのための「ピエロ」として、羽生選手を選んだ経緯が、ちらちらと見える場面であり、特に女性票を得るための「道具」として、羽生さんがピックアップされた経緯もあります。
こうした事から、残念な結果になると思っていたのですが、それ以上に、羽生選手の男らしさ・大人らしさがあり、非常に好感が持てる対応として、国民栄誉賞があったと思います。
記念品は盾やメダルだけでも十分な昭和の時代
前に分析したのですが、本来、国民栄誉賞は、昭和の時代、多くのが亡くなってからの受け取るものであり、また、盾やメダルだけで十分な感じでありました。それが政治の道具としての栄誉賞としての色彩が濃くなり、まるで、イベントやキャンペーンのような安っぽい支持率の道具としてのイベントになっておりました。
受け取る側も、スポーツ選手という、悪くいえば、頭が悪そうで性格が良く、上から言えばなんでも、ありがたがる層の人へピックアップし、まるでスポーツ新聞の賞のような感じで渡す安っぽさがありました。
それが、今回の羽生選手のように、若くても、今の国民栄誉賞のようなものが、自分にとって、何が必要で何が必要でないのかの判断を、しっかりと持っているのは非常に良いことです。
内閣府のパフォーマンスとしてのイベント
今回、受賞をなったことで、もう少し先の「タレント」が選らばれると思いますが、ハッキリといえば、世間知らずのTV向きの安っぽいスポーツ新聞が喜ぶような国民栄誉賞の受賞者選ぶは、本当に情けない。
もちろん、素晴らしい人を選ぶ流れはあると思いますが、あちこちから、やっかみの声や調節の声、支持率の道具としての流れなど、低俗な雰囲気が永田町や霞ヶ関であります。
ですから、単なるパフォーマンスではなく、しっかりとした規定を設けることが必要です。
例えば、生前か死後かという流れも重要です。
やっぱり価値を判断するためには、死後の受賞へと戻す事が必要であり、また、単なる内閣府のような一部の世間知らずで決めるのではなく、しっかりとした審査によって対応するのがいいと判断します。
2018年7月2日